この記事は、2011〜2013年に海外をフラフラと旅をしていたときの日記と写真を、ムック風にまとめたものです。
「治安の悪い国ってありました?危ない目にあったことは?」ときかれたとき、よく話すのがこの編で書いたアルメニアでのできごと。三年近く旅をして、これくらいしか危険を感じるような体験をしていないと思う。(忘れていなければ・・)
楽しいことだらけの旅だった。きっとこれはラッキーだったということだ。
西を向くグルジア
トルコのトラブゾンから、国際バスに乗ってグルジアヘ。中央アジア諸国以来の旧ソ連の国だ。
経験上、旧ソ連の国境はあまり良いイメージがない。荷物のチェックはやたらと長いし、税関職員の態度もやな感じ。イチャモンをつけて持ち物を没収されたり、賄賂を要求されるなんて話もよく聞く。そんなわけでグルジア国境にもそれなりの準備と覚悟をして入った。
ところがどうだろう、荷物チェックは赤外線のみで、わざわざバッグを開けて中身を見せる必要もなく、日本人だからといってちょっかいをかけてくることもない。パスポートコントロールでは、「Welcome to Georgia」のという歓迎の言葉。
久しぶりのロシア語圏なので、数日前から復習していたというのに・・・。
丁寧な対応とまさかの英語。なんだか西側先進国みたいだ。ここは本当に旧ソ連の国なんだろうか?いかにロシアと決別したいかを垣間見た気がした、グルジアとのファーストコンタクトだった。
イェレバンのリダの家
普段、僕は夜の街を出歩くことはしない。外国で危険な目にあわないための最低限のルールだし、酒を飲まない僕にとって夜の街はそんなんに魅力的なものせはないのだ。
ただ、やっぱり例外はある。アルメニアの首都イエレバンに滞在していたときのことだ。
その日、僕は街の名物オペラをみるため、劇場のある中心街にいた。夕方からはじまる演目をみたあと、すぐに宿に戻るはずが、劇場で隣になったイラン人の親子の家に招待されてしまったのだ。”されてしまった”というと少し語弊があるかな。イラン人らしい少し強引なホスピタリティ。せっかくの好意を断ることはしたくないし、アルメニアでイラン人と一緒に夕食なんてのはまんざらでもない。結局彼らの家にお邪魔させてもらい、数時間後、宿に戻ることになった。
市バスは動いていないし、タクシーは財布に優しくない。少し遠いけど、歩けない距離じゃなかった。夜の11時位だっただろうか、暗い路地を歩いていると、ぼくの着ているジャケットに冷たい水みたいなものがかかった。
匂いですぐビールとわかった。ビールがかかってきた方を見ると、喧嘩上等よろしく手招きしている。腕っぷしには全く自信がないし、喧嘩なんてしたことのないぼくには、無視して逃げることしかできなかった。
今まで旅してきて、ここまで理不尽に危害を加えられた経験はない。思い返せば、日中に街を歩いていてもバカにされたように笑われることが何度もあった。他の国でも稀にあるけれど、アルメニアはその頻度が高かった。いわゆるアジア人蔑視というやつだろうか?
こんなこともあって、アルメニアの印象はあまりよくない。じゃあ、アルメニアが嫌いかと言われると、そういうわけではないのです。
その理由はひとつ。アルメニアにはリダの家があるから。旧ソ連圏での宿泊先としてはスタンダードな民泊(一般の人の家に泊めてもらうこと)
イエレバンでは一泊1000ドラム(約200円)でリダの家に泊めさせてもらっていた。ネット回線どころかシャワーもない不便な環境。そえでも僕の好きな宿ベスト5にはいる、とても居心地のいい宿だ。その理由は宿主のリダさんの笑顔ゆえ。あれからもう2年。リダの家はまだ旅人を迎えているんだろうか。リダさんは元気でいるだろうか。
オイルマネーの行方
図書館で読んだ雑誌ナショナルジオグラフィックに、BTK(バクー・トビリシ・カルス)鉄道についての記事が書かれていた。
名前の通り、バクーからトビリシを通り、トルコ東部のカルスという街を結ぶ鉄道だ。2005年に開通したBTC(バクー・トビリシ・ジェイハン)パイプラインとともに、この鉄道が開通することによって人や物が東西を行き来し、コーカサスは今後発展していくだろう、というようなことが書かれてあった。(イラン、ロシアを経由せずに石油をヨーロッパに運べる為)
発展の源はカスピ海で採れる石油。現在、油田のあるアゼルバイジャンは石油バブルに湧いている。
コーカサス三国の中では唯一、貧乏旅行の出来ない物価の高い国ではあるけれど、そういう国を見るのも悪くない。安宿だって探せばあるはずだ。と、ろくに調べもせずに入国したのが間違いだった。首都バクーには僕が払えるような安宿はひとつもなかった。
ガイドブックに載っている宿は、都市再開発によってすべてなくなっていたのだ。バブリーな街をみるという計画は早くも崩れ、僕はもうひとつの目的地であるフナルッグ村を目指した。コーカサスの山々に囲まれた小さな村。まあいいや、結局こういう場所の方が性に合っているんだから。
僕を含め、多くの旅行者にとって田舎は田舎であればあるほど魅力的だ。
そういう点でフナルッグ村の田舎っぷり最高だった。30分も歩けば村全体を周れてしまう小ささに、観光客ズレしていない素朴な村人たち。もちろん宿なんてないから、そこいらの家に泊めてもらうのだ。
僕が泊めてもらったのは羊飼いのラフマンさん宅。この家はかろうじて電気がきているものの、水道はひかれていないので、生活用水は近くの水場に汲みにいく。男は羊を追い、女は家事をする。有難くなるほど、「ザ・田舎」なのだ。
フナルッグ村を発つ前日、ラフマンさんが村全体を見下ろせる高台に案内してくれた。いつの日かオイルマネーの恩恵はこの村にまで及ぶんだろうか。村の人々が望むのは発展なのか、それとも、今の穏やかな暮らしなのか。
ラフマンさんは5分ほど景色を眺め、何も語らず家に戻っていった。
自称独立国家
ソ連崩壊後、南カフカスはグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの三つの国にわけられた。
国境線というのはどういう理屈で引かれるのだろう?この地域の国境線は民族の分布をあまり考慮されずに引かれたらしい。
“自祢“独立国家ナゴルノカラバフは世界でアルメニアだけが認める国家だ。
独立前、アゼルバイジャン領内にあったにもかかわらず、人口のほとんどがアルメニア人。わずかにいたアゼリ一人も、1988年にはじまったナゴルノカラバフ戦争でほとんどが逃げてしまった。
首都ステパナケルトから少し離れたヴァンクという村では、戦争の名残のようなものを見ることができる。アルメニア人は、逃げたアゼリー人が残していった車のナンバープレートを外し、壁のように敷き詰めたモニュメントを作った。
狭い道路の両側に、フェンスのようなモニュメントが延々と続いている。アルファベットや数字でまとめられたナンバープレートはどこか偏執的雰囲気を帯びていた。
勝利の証としては不気味すぎるものだった。
バラの香りにつつまれて
ブルガリア中央を東西に走るバルカン山脈と、スレドナ・ゴラ山脈にはさまれた一帯。
世界一の香りといわれるダマスクローズは、ここ「バラの谷」でつくられる。収穫期をむかえる6月のカザンラクは、老いも若いも女も男も、ブルガリアンもジプシーも、歌い、踊り、バラを摘む。
風が運ぶ甘い香りは、ブルガリアに夏の訪れをつげるのでした。
Travel Lake a Whirlwind
ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、オーストリア、イタリア、フランス、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル。
バケーションシーズンの高騰した宿代に、西に進めば進むほど上がっていく物価。みるみる減っていく口座残高に、泣きそうになりながら駆け抜けたヨーロッパ弾丸旅行。
ユーラシア大陸の果てを目指して。
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