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世界一周旅行記のまとめ丨アメリカ大陸編

この記事は、2011〜2013年に海外をフラフラと旅をしていたときの日記と写真を、ムック風にまとめたものです。

NYから西海岸までバイクで走ったアメリカの旅は、ジョジョの奇妙な冒険第七部Steel Ball Runのオマージュのようなもの。主人公のジョニィが通ったルートの逆バージョンを、「Go Go! Go Johnny Go Go!!」って歌いながら走っていた。

誰のためでもなく、ただひたすら自己満足を追求して楽しめるのって素敵なことだな。と、今更ながら思う。旅っていいよなあ。

野宿のおはなし

アメリカ旅の思い出というと、バイクと野宿のことばかりだ。

野宿をはじめたのはルート66を走りはじめた頃からだった。バイクを買ったのはニューヨーク。そこからワシントンまで南下し、その後は北上してバッファローヘ。ナイアガラの滝を経由してカナダのトロント。アメリカに再入国し、西に進んでデトロイト、そしてシカゴと、バイク旅をはじめた当初は比較的大きな街を巡ってきた。

友人宅に泊まらせてもらったり、ユースホステルに泊まったり。たまたま24時間営業のレストランがあったりして、野宿をする必要にせまられなかった。が、シカゴから先はそうはいかなかった。

この先はユースホステルのあるような都市はほとんどない。いわゆるモーテルですら一泊40ドルはするところが多く、情けないことに僕にとってその値段はとうてい払えるものではなかった。

それでなくてもガソリン代や食費にお金がかかるのだ。選択肢は野宿以外に考えられなかった。

日中走りながら考えていた。どういう場所で野宿をするのがいいだろうか?

まず第一に、人目につかない場所がいいだろう。誓察に通報されたらたまらないし、下手をしたら強盗にあうことも考えられる。アメリカは銃社会だというし、この条件は絶対だ。とはいうものの、人目につかない場所というのは意外と少ない。そもそも大きなバイクで移動しているわけで、道のないようなところに入り込んでいくこともできないのだ。それに、ひと気が全くない場所はそれはそれで不安だった。

次に、平らな場所であること。毎日200300マイル(320480キロ)バイクで走るのはかなりの疲労が溜まる。地面が斜めになっていたり、ゴツゴツしていたりする場所で寝たくはない。

そんなこと考えているうちに、陽は傾きはじめてしまった。運よく大きめの街につき、食料を買うためにウォールマートに立ち寄ると、駐車場のすぐそばに空き地がある。

これは、と思い入ってみると、ブルドーザーやショベルカーが置いてあり、適度に整地されているが、雑草に囲まれているので外からは見ることができない。という、素晴らしい条件の場所だった。

陽が沈みきる前にすぐにテントを張った。貴重品をテントにしまい、寝袋にくるまった。とても緊張していた。この場所だって絶対に人が来ないとはいえない。

目が冴えてしまい、どうにも眠れないのでロウソクに火をつけて本を読んだ。ニューヨークの紀伊国屋で買った「ムーミン谷の彗星」の文庫だ。それからその日のことを日記にまとめた。そろそろ眠りにつかないと、と思いはじめたときだった。

テントのメッシュ部分から何か動物の陰が見える。大きさは小型犬くらい。太い尻尾を立て、警戒しながらこちらを見ている。リスのようにも見えるけど・・それにしては大き過ぎる。だけど、なんだかカワイイ。

もっと近くにこないかな、とチッチッチッと舌を鳴らした。動物は数秒こちらのことを見ると、すぐに走り去ってしまった。

そのときはわからなかったけど、あれはおそらくスカンクだった。アメリカ全土に分布し、お尻から出す分泌液の臭いは強烈で万が一目に入ったら失明することもある危険な動物。

我ながら危なっかしいことをしていた。と思いながらも、一度野宿をしてみたことで、経験の無さからくる不安は無くなった。少なからず自信がついたし、なによりバイクでアメリカを旅しているという実感が、より大きなものになっていた。

この日以来、何度も野宿をしていくことになったが、当然のことながら野宿をすることが旅の目的というわけではない。一応、毎日ここまで進むというおおよその目標がある。野宿しやすそうな場所があっても、100マイルしか走っていなかったら止まることはできないし、そもそも陽が暮れていないと目立ってしまってテントを張ることはできない。

回数を重ねるうちに、場所の条件なんてどうでもよくなっていった。いちいち探すのも面倒で、平らな場所さえあればいいや、という具合だ。そうなってしまえば、アメリカはどんな場所でも野宿ができる国だ。

満天の星空を見上げてキャンプをしたモニュメントバレー。氷点下のイエローストーンでは、凍えながら夏用寝袋で夜を越した。キャンプ中に地元の人から野菜を頂いたこともあった。野宿をした数だけストーリーは生まれ、そんな旅ができていることがたまらな<嬉しかった。小説、ムーミン谷の彗星のなかで、スナフキンが語る言葉がとても心にしみてくる。

テントでくらすって、いいものだぜ

 

 

彼の地への憧憬

あこがれの地、ボンネビル・ソルトフラッツ。

走っても、走っても、どこまでも続く地平線の白い色。雲ひとつない、澄明な空の色。間違いなくここはパイクで走るべき場所だった。バド・クレイのように。

ソルトレイクシティから数時間走って到着したものの、塩湖の入り口についた瞬間、思わずブレーキレバーを握ってしまった。

アスファルトの道路はそこで途切れ、一段下がった塩湖に深い水たまりが広がっていた。スピードウェイに行くにはここを越えなければいけないらしい。遠くのほうではハーレーがエンストしている。

深いところはどれくらいあるんだろう。水に入ってみると以外に浅く、泥道のように路面がぬかるんでいるわけでもない。しかしトラックが作った轍にタイヤがはまり、ハンドルをとられることもあるので安心もしきれない、そんな状態だった。

慎重に、ゆっくりと5分ほど走ると、徐々に水のない部分が増えていき、乾燥した塩原にたどり着いた。スピードウェイにはカラフルなスポーツカーや、お洒落なクラッシックカー、ロケットのような形をしたドラッグマシンたちが列を作っていた。

ギャラリーの声援やメカニックの怒鳴り声、休日だったこともあって想像以上に賑やかだ。

映画The Brown Bunnyの中でヴィンセント・ギャロが演じるバド・クレイは、ホンダRS250Rに乗り、猛スピードこの場所を走った。白く広がる世界に、彼とバイクだけが存在していた。ツーストロークの甲高いエンジン音がどこまでも響きわたり、遠くへ走る姿がみるみる小さくなっていく。アメリカ映画で最も美しい映像のひとつだ。

とりあえず、走ってみよう。ギアを2速、3速とあげ、60キロくらいのスピードでも安定して走れることがわかった。思ったより走りやすい。これなら、と思い、トップギアで100キロ、110キロ・・最終的に時速140キロまで出した。

KLR650はスピードを求めるバイクではないので、ここらが限界。そもそも、僕はスピードを出すのは好きじゃない。あちこちにヒビ割れや穴があいた路面でこれ以上のスピードを出す度胸はなかった。それでもこの「ヴィンセント・ギャロごっこ」は、アメリカの旅の一番のハイライトになった。

ヴィンセント・ギャロは映画のシーンについて、以下のようなコメントを残している。

昔、「世界のスポーツ」で、ブルーフレイム社がボンネヴィル国際スピードウェイで速度記録を決める企画があった。人生最後にやるべきは何かと考えると、ここで車をぶっ飛ばしたいと思った。

10代の頃はよくここに来て飛ばした。この場所は何故かやけに気持ちよかった。世界の終わりみたいで。とても美しくて。

ふいに思い立ちこのカットを撮影した。気温は51度もありスタッフも助手も二人だけ。主人公はバイクを車から降ろした。この男がコントロールできるのはバイクだけで、何かから逃れたい思いにかられていたのだと思う。どこへともなく彼はバイクを走らせようと思った。どうなるかやってみよう。そんな思いにかられていたのだろう。

でも実際は、レース用のバイクを走らせるにはかなり危険な状況だ。レース用に調整されたツーストロークだし、細身のバイクだからシリンダーヘッドを駄目にしてしまう可能性もある。そうなれば後輪がロックされて一巻の終わり。

結局、270キロで走った。

 

宴の夜

オアハカの街は骸骨であふれていた。

骸骨の形をしたチョコレートや砂糖菓子、大小さまざまな人形。お土産屋さんはもちろん、民家や公園、教会、墓地、あらゆる場所は死者の日の宴会会場と化し、ドクロのフェイスペイントをした生ける死者たちが街を練り歩いている。

Dia de los Muertos (死者の日)は、日本でいうところのお盆のような日だ。夜になると、パレードが始まり、バンドとともに美しい仮装隊が踊り始める。広場ではライブが始まり、別のステージでは仮装コンテストが行われ、カメラのフラッシュが眩しくらいに光を放つ。

喧喚からはなれ墓地に行くと、ここにも木琴やアコースティックギターでしめやかに死者と語らう人たちがいた。すでに日付は変わっている。「いつまで演奏を続けるの?」と聞くと、木琴を叩きながら答えた。「死者が帰るまでだよ」死者の日は陽気なラテンアメリカらしく賑やかで、派手で、それでいて温かい。

マリーゴリールドの鮮やかな色と香りにつつまれて、宴の夜はまだまだ続くようだ。

 

世界の終わり

マヤ暦が終わり、世界は終焉を迎える。

そんなオカルト的”マヤブーム”に世間が熱を上げていた2012年の12月、ちょうど僕は渦中の(?)グアテマラにいた。

メキシコとの国境近く、フローレスという街からジャングルを分け歩き、丸二日かけてたどり着いた遺跡エル・ミラドール(スペイン語で展望台の意)から見える景色は、見渡す限りジャングルが広がっていた。そして一カ所、山のように盛り上がっている部分、9世紀に放棄されてから21世紀にいたるまで、1000年以上のときのなかで木々に覆い尽くされてしまったピラミッドらしい。

調査が進んで発掘された遺跡も、きっとこんな状態だったんだろう。人工的な建造物の面影が消え、ジャングルに侵食されている姿は、なんだか少し怖い。そして、それを掘り起こしてしまう人間のパワーも。

20121221日、人々が少しだけ期待していたであろう「なにか」はおこらず、世界は終らなかった。

この侵食されたピラミッドも、何年か先には発掘され、ティカル遺跡のような観光スポットになるんだろうか・・・。終わってしまった世界は奇妙で、どこか美しかった。この場所は静かに眠っている。とりあえず、今はまだ。

 

メノナイト

ボリビアにはメノナイトと呼ばれるドイツ系移民がいる。

彼らは電気をつかわずガス灯で明かりをとり、自動車のかわりに馬車で移動する。現代人があたりまえにつかっている便利な道具を自ら放棄した人々。外部との接触は少なく、メノナイトだけで集落をつくつて暮らしている。

友人が教えてくれたこの情報に、僕はとても興味をそそられた。この時代にあえてそんな生活をしている集団。どんな人たちなんだろう。しかし、いかんせん情報が少なかった。

そもそも広いボリビアのどこに住んでいるのかがわからない。ドイツ系移民だけのコミュニティということは、ドイツ語しか話さないのだろうか?仮に場所がわかっても個人で行けるんだろうか?そもそも日本人の旅行者を集落に入れてくれるのか?

わからないことだらけの、メノナイトを探す旅。

 

情報収集

サンタ・クルス。ボリビア第二の都市というだけあって人口も多く、街のある一画でかなりの人数のメノナイトをみかけた。

彼らの服装は独特で、男の人はオーバーオールにキャップ。女の人はワンピースで頭にスカーフをまいている。髪の色や顔の造りもボリビア人とは見た目があきらかに違うので、彼らを見つけること自体はとても簡単だった。

メノナイトといっても皆が皆、同じ生活をしているわけではないようで、外界と一切接触しない原理主義的なメノナイトもいれば、ボリビア人とある程度の交流をしながら、現代の生活に溶け込んでいる者もいる。サンタ・クルスで見かけたメノナイトの多くは、後者であるらしい。

数人のメノナイトに話しかけたところ、予想はしていたけれど、案の定相手をしてもらうことはできなかった。東洋人の僕がカメラをぶら下げて話しかけてきたのだ。怪しむのも当然かもしれない。街で暮らすメノナイトも、基本的にはコミュニティの外にいる人間とは関わろうとしないようだ。

となるとやれることは一つしかない。とにかく何人でも声をかける。少数ではあるけど社交的な人がいるはずで、その人にあたるまで声をかけまくる。なんだかナンパに燃える若者のような気分だ。問題はナンパという行為をしたことが一度も無いことだが、まあ、なんとかなるだろう。

話をしてくれる相手が見つかるのに数日はかかると思っていたが、幸運にも一日で3人のメノナイトと話をすることができた。彼らの話から得た収穫は大きかった。

まず、スペイン語で会話ができること。念のため、メノナイトとのコミュニケーション用にドイツ語の会話帳を日本から送ってもらっていたのだが、スペイン語で会話できたのはありがたかった。

そして、サンタ・クルスからそう遠くない場所にパウリートという名前のコロニア(集落)があるということ。パウリートの近くにボリビア人の村があるから、そこまではバスで行けること。一日に一本はバスが出ていること。

他にも色々と詳しく話してくれたが、僕のスペイン語レベルではあまり理解できなかった。とはいえ、排他的でないメノナイトがいることがわかったことが、一番の収穫。翌日、早速パウリートヘ向けて出発した。

 

メノナイトの生活

集落は予想以上に大きかった。

といっても人口が多いわけではなく、ひたすら面積が広いのだ。それぞれが農地や牧場を持っているため一戸一戸の間隔が大きく、隣の家と500m以上離れていることもざらだ。

ここに来るまでの道中で気づいていたが、やはり電線はない。電気のない暮らしをしているようだ。

嬉しいことにパウリートの人々は僕を受け入れてくれた。写真NGは覚悟していたがほとんどの人が写真を撮られることに抵抗が無いようだった。写真を撮ろうとするとレンズから視線をそらす人も多いが、彼らなりのポーズを決めているようにも見える。不思議にチャーミングな人たちだ。

10代の年頃の女の子だけは別で、カメラを向けると逃げ出してしまう。しかし興味はあるようで、遠くからキャーキャー言いながらこちらの様子を伺っていた。無事にメノナイトのコミュニティに入ることができたところで、次の目的は彼らの生活を見ることだ。

集落を見てわかるように、主な仕事は畑仕事や家畜の世話。ただし一軒だけ売店があり、そこだけは「外の世界」と通じているようで、缶詰やパスタなどの加工食品が売られている。当然値段がついていて、お金で支払うわけだが、そのお金は農作物や肉などを売ることで得ているそうだ。

季節的に畑での仕事は今は無いらしく、家畜の世話を見せてもらえることになった。

協力してくれたのはパウロさん。彼は奥さんと二人の子供の四人で暮らしていて、牛の他にも食肉用の豚や鶏、アヒルなどの牧畜で生計をたてている。牧場から手際よく牛を小屋に誘導し、餌を食べている間に脚を固定。

特に何を説明するでも無く、黙々と乳絞りをしていく。パウロさんが朝夕5時に毎日かかさずする仕事で、今見ている光景は、まぎれも無く僕が見たかったメノナイトの生活だった。

結局、三日ほどこのコミュニティに通い、4,50人のメノナイトに会ったが、気になったのがパウリートの人たちは顔が似ている人が多かったこと。

僕が日本人だから西洋人の顔を区別できないというわけでなく、特に耳が大きい人が多い。小さなコミュニティだから近親で結婚することが多くなってるのかな?と思ったが、それを確認できるだけの語学力もない。とはいうものの、その疑問はたいした問題ではない。一部ではあるが彼らの生活を見ることができたことに満足していたのだ。

日が沈んで暗くなった帰り道、10キロ離れたボリビア人の村にある宿に向かって歩いていると、パウロさんが馬車で追いかけ、村まで送り届けてくれた。そのときも口数は少なく、僕を降ろすとそのまま走り去ってしまった。

謎のメノナイトを探す旅、おしまい。

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